「静岡県・北海道」交流プロジェクト:北海道歴史文化講演会

開拓の歴史が結ぶ静岡と北海道十勝開拓を目指した晩成社

令和3年2月23日(火・祝)、当法人では静岡県の文化振興などを目的とした活動団体である一般財団法人 川村文化振興財団が主催する”「静岡県・北海道」交流プロジェクト”に共催し、講演会を開催しました。帯広百年記念館学芸員の大和田努氏をお招きし、貴重な歴史資料から開拓時代の様子や静岡県から北海道十勝開拓を目指した晩成社の挑戦、そして晩成社によって生まれた静岡県と北海道とのつながりなど、大変興味深いご講演をいただきました。

講 演:
十勝開拓を目指した晩成社


帯広百年記念館学芸員 大和田努氏

1.はじめに

帯広市は道内5番目の人口を有する十勝の中心都市であり、農畜産業が盛んで、物資の集散地としての役割もある。最近は観光資源としてばんえい競馬でも知られている。「帯広百年記念館」は総合博物館であり、晩成社が入植した明治16年(1883年)を基準として100年後に建設されたことからこの名がつけられている。このように帯広市を含め、十勝内陸部の本格的な開拓は、晩成社による入植年を基準に考えられている。

2.晩成社のあらまし趣旨説明

静岡県松崎町出身の依田勉三は、地域の象徴的な開拓者として、小学校4年生の社会科でも学習されている人物である。明治16年3月、交通路もない時代にほぼ手付かずの広大な十勝平野に魅力を感じ、依田勉三をリーダーとする「晩成社」が松崎町から2か月かけて海を渡り北海道へやってきた。昼も暗いほど生い茂る樹木を切り開き畑にしていく。当時の日記からは、依田勉三自らもそうした作業に従事していたことが読み取れる。開拓は困難を極め、静岡等から入植した13戸の開拓団は約10年後には3戸に減った。それでも依田勉三は諦めず、大正14年に亡くなるまで挑戦は続いた。依田勉三の死後、昭和7年(1932)年に晩成社は解散している。

3.晩成社事業の新規性

一般の開拓者にとっては、生活の安定が一番だったと考えられる時代。晩成社は今日の表現で言う6次産業に近い、生産物の加工から販売までを担う先駆的な事業を展開していた。代表的な事例として、牛肉とバターの販売について取り上げる。

まず牛肉の販売について紹介する。明治19年、帯広から70kmほど離れた大樹町生花苗(おいかまない)を開拓し、牛の飼育を開始した。しかし当時の十勝の人口はまだ少なく、牛肉を食べる文化も成熟していなかったことから、明治26年に函館に牛肉店を開く。生花苗から函館までの500kmの道のりを、牛を連れ20~30日程度かけて海岸線を歩いて運んだ。古文書からは、道中の食糧、屠殺の記録、販売先までも読み解くことができる。しかし、海岸線輸送は夏季に限定されるなど課題も多く、6年程で牛肉店は閉店。

次に晩成社が乗り出したのがバター販売であった。明治38年頃から計画し、40年代に本格化したこの事業には、当時のインフラ整備が大きく影響している。鉄道が釧路方面から伸び、明治35年に帯広駅が開業、明治40年には札幌・函館方面に開通したのである。依田勉三はこれをビジネスチャンスととらえて、バター販売を本格化させたと考えられる。古文書からは、十勝生花苗からバターの消費者が多い都会の中心地、東京上野まで輸送、販売していたことが読み取れる。しかし中小規模の農場では、生産、輸送、販売の不安定さなどに対処できず、事業拡大には至らなかった。このように、晩成社の事業は遠隔地ゆえの輸送の課題を抱えていた。

依田勉三がこうした先駆的な事業に挑戦した背景には、伊豆半島で蚕の生産、加工、販売を展開していた兄の佐二平の存在があったと考えられる。依田勉三一人がクローズアップされがちであるが、晩成社の開拓や経営には、依田家や松崎町の人々の尽力があったことも特筆すべき点である。

4.現代とのつながり

晩成社の事業は成功には至らず、昭和7年に解散となる。しかし現代にも晩成社の開拓の歴史は息づいている。例えば全国にも知られている帯広の代表的お菓子メーカーのパッケージには、晩成社の功績を表して同社が商品化したバター(マルセイバタ)のラベルを復刻させたデザインが使われている。他にも晩成社が所有した土地は歴史的な変遷を経て他の人の所有となっているが、地名として晩成社の足跡が記されている。そして、現在の帯広はといえば、晩成社の苦労に学び、民間と行政との連携により、コスト削減や大規模工場の誘致など、輸送面での課題を克服しながら農業地域としての歩みを進めている。さらに人々とのつながりの意味では、晩成社や依田勉三は十勝開拓の先駆者として静岡・北海道の人々に語り継がれる存在となっている。帯広市と松崎町は姉妹都市連携を結び、子どもも含めた交流事業を行っている。また、カップ麺で有名な東洋水産の創業者で静岡県出身の森和夫氏は、同郷である依田勉三の存在を知り、歴史的資料を収集し帯広百年記念館に寄贈している。こうした人々のつながりのおかげで歴史研究を進めることができる。

おわりに

晩成社はいち早く、帯広十勝の農畜産生産地域としての可能性に気が付き、挑戦を続けた。そして晩成社の苦労に学び、後の世代が生産、加工、流通のコストを低減し、帯広十勝を農業地帯として確立させた。そして、晩成社の開拓によって静岡と北海道に縁が生まれ、物や人々の交流も生まれている。歴史に触れることで、遠くの地域のものに付加価値が生まれ、面白くなる。

講演会を終えて

今回は初めて北海道を離れ、他府県との交流の機会を得ました。本講演会を通じてまた新たな人のつながり方ができたように感じます。歴史を辿り、地域を知ることで人とのつながりが生まれる。ほっかいどう学では「北海道」の枠を超えて、今後もこうした交流活動を積極的に進めていきたいと考えています。