ほっかいどう学推進フォーラム 設立記念シンポジウム

基調講演「古地図と歩く北海道~札幌と周辺を中心に~」


(株)あるた出版編集部部長 
和田 哲氏

北海道には、人間味あふれ、愛すべき歴史がたくさん眠っている


NPO推進フォーラム設立おめでとうございます。北海道の歴史は短いからこそ掘り起こすことができます。美化したりごまかしたりすることができません。北海道には人間臭く愛すべき歴史があります。本日はほっかいどう学を考えるにあたって、そういった興味深いエピソードをご紹介させていただきたいと思います。

■豊平橋が「北海道三大名橋」!?

北海道三大名橋をご存知でしょうか。旭橋(旭川市)・幣舞橋(釧路市)に並ぶのが「豊平橋」です。今も美しい二つの橋に比べて、何の変哲もないように見えるこの豊平橋が、なぜ「北海道三大名橋」の一つに選ばれたのでしょうか。今でこそダムが建設され穏やかな豊平川ですが、かつては日本有数の急流の暴れ川で、架けては流され、を繰り返し、明治初期には「豊平橋流出の惨状」という絵葉書もあったほどです。その後、お雇い外国人によって札幌に橋脚のないアーチ構造の世界最先端の橋がかけられました。明治31年には、岡﨑文𠮷によって頑丈さを第一にした鉄橋が架けられましたが、これも12年でだめになり、しばらく木造の仮の橋の時代が続きました。ようやく流されない橋が架けられたのが大正13年21代目豊平橋です。100年持つとされた強さだけでなく、美しさにもこだわったこの橋が「北海道三大名橋」と呼ばれました。この流されない橋の完成は札幌市挙げてのお祝いとなり、開通式には2万人の群衆が訪れました。

ところが、高度成長期の自動車の増加に伴い、この橋が渋滞のネックとなり、強度としては問題なかったものの、再び架けかえられることとなり、昭和41年現在の23代目豊平橋が誕生することとなりました。もしこれが今の時代なら、昔のデザインを残すなどの工夫があったかもしれませんが、この時代にはそういう考え方はなく、デザイン的には特徴のない現在の豊平橋になったということです。

■小さな山「モイワ」

北海道の歴史を辿ると、人間らしい間違いがたくさん見つかります。その一つをご紹介します。札幌の中心部に近い藻岩山はアイヌ語で「モイワ」、「小さな山」という意味ですが、標高531mと決して小さくはないこの山が、なぜ、「モイワ」と言われたのでしょう。実はアイヌの人がモイワと呼んだのは隣の「円山」のことでした。アイヌの人は藻岩山を「エンカルシぺ」と呼んでいました。

実は、明治初期の頃は和人にも二つの山の名称が正しく認識されていたということが明治6年の絵葉書からわかります。その後、恐らく偉い人が間違えて誰も指摘できなかったのでしょう。「モイワ」は近くに円山村という村があり、まちも円いし、丁度良いということで、「円山」と呼ばれるようになり、隣の山の名前が「藻岩山」となったのでないかと言われています。

■本願寺道路の歴史

続いては、札幌から中山峠を超えて洞爺湖に向かう道路、本願寺道路のお話です。札幌のまちづくりは明治3年、創生川沿いから始まりました。明治政府はロシアの南下政策に備えるために北海道開拓を急いでいましたが、財政難で費用も人手も用意できませんでした。

そこで目をつけたのが京都の東本願寺でした。東本願寺は徳川家に縁の深いお寺で、新政府ににらまれてはいけないと、「新政府のお手伝いなら何でもします。」という誓約書をしたためていました。正式書類には東本願寺が願い出て、政府が許可したとありますが、実際は相当な圧力があったのでないかと想像します。

本願寺道路開拓の責任者であった当時18歳の大谷光榮の銅像が中山峠にあります。京都から歌を歌いながら、お金と人を集めながら北海道にやってきました。1年4か月かけて、明治4年に人がやっと歩けるくらいの本願寺道路が完成しました。

ところが、開拓史顧問ホーレス・ケプロンに馬車が通行できない道路は使えないとダメだしをされ、後に国道36号となる道路を新たにつくることとなりました。結局、重機のなかった当時、大変な苦労をして開拓した本願寺道路はわずか2年で使われなくなり、その後、長く眠った道路となりました。冬も通行できる現在の道路になったのはようやく昭和45年頃のことでした。